題名

なんとなく思いついたものを。 どうやら私は行楽シーズンほど負の感情が増大するようです。

咲いては散っていく花。変わらない春が年々愛おしくなっていく。 人は変わっていっても変わらない節理がある。見えなくてもそれはどこかに。

何事も変化し続ける世に対し、いつまでも変わらない月よ 変わること、変わらないこと。 どちらも時に美しく、時に醜い。 判断するのはさまざまな人。 なればこそ、さまざまな答えがあるのでしょう。

修行が足りず、未だ極楽には至れない。死へと続く私の時間よ、もうしばらくの猶予を。 ひつじのあゆみ=必死の歩み、だと思いますが、ただ死ぬための人生は悲しすぎます。 せめて何かを成し遂げて、成し終えてから死出へと旅立ちたいものです。

うたた寝は風でさめても、迷いは覚めることは無い 迷っても、いつか進めれば。

月の軌跡を眺めていたら、天の川の河口は海に繋がっていた。 見たものをそのまま表現する歌人、見たものを科学や常識といったフィルターを通す現代人。 一概にどちらがいいともいえない。 世の中はこんなことばかりです。

燕が来ると時同じくして雁は故郷を思いつつ帰っていく 春は出会いと別れの季節。 それなのに、出会いが強調されている気がするのは偶然でしょうか。

もう、五月です。 余裕がなく、何もできない日々が続いています。 実に苦しく、実に不甲斐ない。 今回は言の葉を残しておきます。 最後の文こそが核ですが、状況を深めるため、前の部分も。 「君がうらやましいよ この世に未練を残すほどいろんなものを手に…

なんとなく春になったと聞いた日より吉野の山が気になる。 吉野は桜の名所であり、現代でも春といわれて桜を思い浮かぶ人が多いと思います。 もっとも、桜よりも花見酒がメインでしょうが。

手にすくった水に映る月のごとく、あるのか無いのかわからない儚い生だった。 せめて、あると感じていたいものです。

竹林のざわめきが静まる夕暮れ時の趣は秋に限った話ではない。 いいものはいつでもいい、ということでしょうか。 旬にこだわるのも一興、されど周りを見渡して見つかる日常もまた。

散るなら私も一緒に。この世はもう嫌だから。 いつの世の中でも嫌な世の中、世も末とは言いますが、ここまで厭われた世の中とは。 そして、現代を西行が見たらどう評価するのでしょうか。 自分がいたときよりもましか、それとも。

夢を嵐の音で紛らわせようと思ったが、孤独な山小屋に雨が降り注ぐ。 孤独は人にとって最大の敵なのかもしれません。 私としてはこの[題名]が雑記の中核を担っているつもりです。 ですから、此処が思いつかないときも更新が滞ってしまいますことを、ご了承く…

非常によろしくありませんね。 精神的に余裕が持てません。 その所為かなかなか更新しようにも短歌の吟味が出来ません。 題名に据えさせていただく短歌はわりとランダムに選出し、参考サイトなどを参考にしていますが、私自身が理解できるものを選んでいるつ…

海なのか空なのかわからない。その境界が曖昧で。 線引きは重要ですが曖昧にしておくことも時には重要なのでしょう。

梅の花が枝から散るように、雪が風に舞い、ふっている。 現代の人々は花の咲き具合で判断し、散り際を重要視していない気がします。 始まりあれば終わりある。 その摂理を忘れないでいきたいものです。

歌の才のない自分にとって、見えないのもまた一興。雪の積もった富士よ。 作者が盲人である、という事前知識が必要という点では評価が低くなる気がしますが、深いと思います。

夕立の雲に負けずと吹く風。その音がやがて雨へと変わっていく。 ただそれだけといってしまえばそれだけの歌ですが、なんとも味わい深いと思います。 余計な解説無く楽しめる歌こそいいものです。

遠い昔にあったことを思い出し、夜毎泣いている。 過去は尊く感じられるものです。 しかし、過去の先には現在があることを忘れてはならないのでしょう。

今回は自分に対するけじめの意味も兼ねて、自作を据えさせていただきます。 ぼんやりと外を眺めていたら思いついたものです。 意味は特にありません。 雨の日の夜、ぼんやりとした灯がある。この道は一体何処に続いているのか。 無理やりに意味づけるならこ…

町はずれでも、人の往来があれば活気というものはある。

風が吹き、何処といわず散っていく花。春は何処へ去るのか。 花を葉、春を秋と変えてみれば季節にそぐうような気がします。 秋は死にゆく季節かもしれません。 しかし、この死が春という再生に繋がるのもまた事実。

別れを惜しむのはあなただけではない。廻りめぐって、またどこかで。 今生の別れ。その際に「いつでも会えるさ」と言われるより、「じゃあ、またどこかで」と言われる方が切ないのは私だけでしょうか。

池の水は私の心のようだ。時に濁り、時には澄む移ろいゆく様が。 宗教の大家といえど、悩むでしょう、人である限り。 神仏の加護と受けれども所詮はヒト。 まつろい、まどって当たり前です。 完全なるものなど、いたところで何の価値があるのでしょう。

琴を奏で、現世を風雅におくりたい。人生の果ての報いがどうであろうとも。 風流人、趣味人として人生をおくる気概をどうとるか。 愚か、と蔑む人もいれば見事、と羨む人もいるでしょう。 結局、人生の評価は果てにおいて、当人しかしりえないことでしょう。

まさに一握の砂。 切ない気持ちにさせる歌です。 彼は海辺で何を思ったのか。

久しぶりの俳句ですが、季節を思い切り無視した句です。 桜の部分を紅葉に変えても同じ意味ですが、何れ同じ道をたどる、ということです。 終着が同じなら、せめて自分が望む道を行きたいものです。

珍しく、季節にそぐった歌を。 蛍を光らせるために誰か、黄金の水を。 過ぎ去る夏へと思いをはせたのでしょうか。 季節は廻ります。しかし、この夏、今は一度きり。 時は非常。これもまた、風情なのでしょう。

日本でも有数の怨霊と謂われる方の句です。 流木、波、そして焼かれる塩。どれもが辛いだろうが海の底にある私には敵うまい。 政治において正道は無く、鬼道を用いるが常の時代。 敗者は何を思うのか。

神も仏も、人の心以外にはいないだろうよ この人の歌は悟っているな、と思わされます。 知ることは必ずしも幸福に結びつくとは限らないのでしょうか。